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本屋さんの思い出

 大きい本屋さんはわくわくする。静かな店内が好きだし、巨大な本棚はどこも整然としていて、清潔感に気持ちが空くような感覚を覚える。
 小学生の頃は読書好きの子どもだったが、だからと言って読むのが特に速いという訳でもなく、社会人の今はさらに読書量が減っている。
 つまり生涯に読める本の数などたかが知れていて、いくら沢山の本を前にしても、そのほとんどは読了できずに終わってしまう。しかし書店に足を運べば、装画を間近で鑑賞することができる。ぱらぱらとページをめくることができる。「本の価値は中の情報にこそある」と言っていた人がいたが、単行本の棚などを眺めていると、個性的な装丁に惹かれずにはいられない。

 大抵の本屋さんは、1ミリの隙間もなく本棚を維持している。余計な紙が1枚でも入ろうものなら誰かが死んでしまう、とでも言うかのように、時に取り出すのに力を要するほど、ぴったりと詰め込まれている。
 だから本を手に取る際は、ページをめくる以上に細心の注意を要する。取り損ねてカバーに折り目をつけてしまわないか、力を込めるあまり天に爪が食い込んでしまわないか、焦らず静かに指先を伸ばす。特にきつめの本棚などは、無事に手に取れただけで、ひと仕事終えた気になってしまう。
 そうして取り出した本の表紙をじっくりと眺める。あらすじなど聞かなくても、タイトルと装画の間から物語が浮かび上がってくるようで、内容とは全く関係ないお話が、いつのまにか頭に生まれてくる。だから、かねてより想いを寄せていた本をついに入手し意気揚々と読み始めると、想像していたものと全く違い、ムムムと唸ってしまうこともしばしばだ。単なるぼくの勝手な思い込みのせいであるから、作者の方には本当に申し訳ないのだけれど、なかなかこの癖は治らない。しかし、そんな意外な体験ゆえに記憶に焼き付いている作品も数多くあるから、決して悪いことばかりではないのだ。

 小学生の頃、近所の本屋さんに遊びに行くことが多かった。家の周りには遅くまでやっているお店がほとんどなく、唯一その本屋さんだけが深夜まで営業していた。門限が厳しかったため、両親の気まぐれで夜分に連れて行ってもらった時などは、まるで異世界を覗いているような感覚に陥り、気持ちがはやるのを抑えられなかった。小学生の頃のぼくにとって、夜中に明かりのついたお店に入る、というのはそれほど稀有な体験だったのだ。
 小さな田舎の書店という佇まいで、いつ見てもラインナップはほとんど変わらない。けれど、ぼくが立ち止まるのはいつも同じ、文芸の棚だった。大抵は表紙を眺めるだけで終わるが、年に数度、お金を持って訪れる時は優柔不断にいつまでも行ったり来たりしていた。お店の人から見れば迷惑に違いないし、ともすれば迷子を疑われてしまいそうだが、顔なじみの子供だからと大目に見てくれていたのだろう。
 ようやく貯めたお小遣いをはたいて買うのは、いつもハードカバーと決まっていた。文庫本なら同じ金額で2,3冊は買えるだろうに、どうしてだかハードカバー以外を買う、という選択肢がなかったのだ。恐らく祖父に読ませてもらう本がいつもそうだったから、文庫はなにやら難しそうな大人が読む本、という印象があったのかもしれない。

 当時からずっと気になっていた本がある。京極夏彦さんの京極堂シリーズと、大沢在昌さんの新宿鮫シリーズだ。どうしてかというと、多くの書店に平積みされていて、そのおどろおどろしい表紙を頻繁に目にしていたからだ。
 京極堂シリーズの講談社文庫版の表紙は、張り子人形作家、荒井良さんの作品だ。今でこそ静謐な美しさに目を奪われるが、当時は幽霊が人を殺しまくって食べたりするさぞ恐ろしい小説なのだろうと、ひとりで震え上がっていた。新宿鮫シリーズの講談社ノベルス版は、荒々しいノイズ調に加工された見るからにおぞましい表紙から、ゾンビが人を殺しまくって食べたりするさぞグロテクスな小説なのだろうと、ひとりで縮みあがっていた。
 そんな小説の内容を知るのは、実に15年近く後になってからだ。当時ぼくが抱いていた印象とは全く違ったが、過去の自分と繋がるような気がして、内容は勿論のことながら非常に楽しく読み進められた。

 アルバイト先の友人と本屋さんに行ったとき、「あ、ヤバい。青木まりこ現象だ。ちょっとっ!」と言ってそそくさとトイレに駆けこまれたことがあった。青木まりこさんとは一体誰だと思ったぼくは、すぐにネットで検索をした。結果はすぐに分かった。なんでも、書店に入ると便意を催す原因不明の現象に付けられた名前らしく、彼女が最初に紙面上で訴えたことから、そのような名称がついたのだと言う。
 なんだか怪しいと思ったぼくは、帰って来た友人に事の真偽を尋ねたが、安堵の表情を見せるばかりで、やはり彼も青木まりこ現象を完全に信じているという訳ではないようだった。そもそもぼくらのアルバイト先は本屋さんだ。DVD・CD・玩具なども取り扱うが、売り場の半分ほどは書籍が並んでいる。青木まりこ現象が本当なら、毎日仕事どころではないはずだ。
 しかし、青木まりこさんがそのように感じたのはなぜだろう。紙の匂いがもたらす反射作用? 静かな店内故に、トイレに行ってはいけないという心理的な強迫感から来るもの?
 いずれにせよ、青木まりこ現象という面白おかしい名前が付けられ、広まってから日本中で患者が増えたことは間違いないのではないか。思い込みの力は強烈らしく、プラシーボという言葉は有名だが、その反対のノーシーボ効果を多くの人が受けてしまった、というのが真相のような気がする。

 ぼくは本屋さんに頻繁に足を運ぶが、それが原因で便意をもよおしたことは無く、幸いにも青木まりこ現象患者ではないらしい。それは良かったのだけれど、幼い頃はオカルトや超常的なことにいたく傾倒していたから、当時の自分が現象を耳にしていたら、もしかしたら信じる気持ち故に患者になっていたかもしれない。
 今でもそういった怪しげな話題は大好きだが、昔ほどときめきを感じなくなってしまったのが、時折寂しくなる。

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