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悪口なんて黙っていろ

 ネガティブな事を貯め込んでいると、往々にして世の中で自分だけがこんなひどい目に遭っている、なんて思考に転がってしまうのが常だ。そんな時に人の辛い話を耳にすると「自分だけではないんだ」なんて不謹慎にもちょっと安心して、そんな人の不幸をすするような自分がとんでもなく情けなく感じるが、だからと言って振り払えるほど強くもない。
 愚痴とか批判とか否定とか、色々な表現で人は悪口を言う。最初は正論をかざしているつもりでも、段々とヒートアップしてくるとつい口が滑ってしまうのだ。自分も苦い思い出は一つや二つではないから常々気を付けようと思っているのだが、例え人の話を聞いている時でも、相槌を打ったり笑って答えたりしたらそれは恐らく同罪であるから、悪口から完全に遠ざかると言うのはなかなか難しい。

 悩み事は解決するしないは別として、誰かに聞いてもらうのが最も心の負担を軽くする、と聞いたことがある。確かにそうだと思うし、そもそも解決を求めるのと人に聞いてもらうのとはまったく別の欲求なのだ。勝手だけれど、悩み事をようやく打ち明けても、見当違いなアドバイスに遮られたり、「もっと辛い人だっている。君は甘えている」なんて批判されようものなら、きっと話した事を後悔する。
 それなら愚痴はどうだろうか。嫌な目にあったり辛いことがあったりすると、誰かに話したくなる時がある。SNSなどでも時折そういう発言を見かけるから、きっとそう考えているのは僕だけではないのだとは思う。
 しかしそれらを傍観していても「この人は貯め込んでいたことを吐き出して、きっと気分が晴れたのだろうな。解決に向かっているな」と感じたことは一度もない。嫌な話は耳にするだけでダメージを負うし、そんな劇物を発信しながら無傷でいられるはずがない。
 ある精神科の先生が愚痴は話さない方がいいと言っていた。言葉にする、すなわち外に出力するというのは記憶を焼き付ける行為であるから、人に話したりネットに書き込んだ分だけ忘れられなくなってしまうのだと。僕自身、愚痴や悪口を人に言って気分が爽快になったためしがない。それどころか、嫌な事を人と共有しようなんて相手からすればいい迷惑ではないか。

 ではそういう時はどうすればいいのか。ひとりで抱え込むしか方法がなく、他人が全く無力なら解決なんてできないじゃないか。と思われるかもしれないが、決してそんなことは無いと僕は考える。
 親しい人と会ってまで、わざわざ愚痴なんて垂れ流す必要はない。ただいつもの通り、楽しい事を話せばいいのだ。ひとりで本を読んだり映画を観たりしても、ふとした瞬間に蘇ってしまう鍋底にこびり付いたような嫌な記憶が、料理を囲みながら笑い話でもしていれば、お腹が膨れる頃にはすっかり消え去っている。(とまではいかなくとも、多少薄まっているには違いない)
 覚えるのが苦労だと言う人は多いが、忘れるのはそれ以上に大変だ。ならばできるだけ考えない時間を作った方が、絶対に有意義だと思うのだ。

 悪口は結構笑い話にもなる。バラエティ番組なんてほとんど見ないが、そういうのを好む人ほど言葉遣いが乱暴になる気がするのは、ただの偏見だろうか。
 映画評論を時折聞くが、そんな文化的な場面でもやたらと批判的、攻撃的な人は多くいる。多少尖っている方が名前が売れるのかもしれないが、もっともらしく批判(もはや個人的な悪口)を撒き散らしながら、結局それを食い物にしているなんて恥ずかしくはないのかなと思ってしまう。

 普段から悪口や批判ばかり言っている人は、僕は絶対に損だと考える。話を聞いているその場ではつい頷いたり、よっぽどの事には笑ってしまったりもするが、後でひとりになった時に必ず「僕もきっと、僕がいない場では同じように悪い事ばかり言われているのだ」と感じるからだ。一度そう思いはじめると、楽しかったはずの時間がさざ波のようにじわじわと黒く塗りつぶされて、元に戻らない。
 糾弾するつもりなんて毛頭ないし、そもそも僕が偉そうに言える程人間できちゃいないのだけれど、心の隅っこに置いて時折思い出すくらいには、これから変わっていきたいと思っている。

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