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読書姿勢は定まらない

 出かける用事も必要な買い物も観たい映画やYouTubeもとくにない。そんな時はたいてい本を手に取る。新しいのを読む気力がないときは、すでに読了済の本を何度も読む。本は映画と違って時間に縛られることがない。逆に言えば自ら読み進めなければならない、ということではあるのだけれど、時間を忘れるほど没頭した後に、ぱたりと本を閉じた瞬間に訪れる、現実に帰ってきたという感覚は、他には中々ないものだと思う。
 
 本棚を吟味して一冊ぬき取ると、布団にどすんと横になってページをめくる。仰向けになって腕が疲れ、うつ伏せになって首が疲れ、横になってこれまた腕が疲れ、ごろごろ行ったり来たりを繰り返しながら、最終的には結局椅子に座る。
 数年前、新聞広告かなにかで"仰向けになりながら本が読めるスタンド"なるものが売っていて、説明すると難しいのだけれど、要は顔の前に本を開いた状態で固定して、ページをめくるだけで読み進められる、という商品だった。
 読書のたびにスタンドを引っ張り出して高さを調整して、なんて余計おっくうになりそうな感じもするが、読み心地はちょっと気になってしまう。かつてないくらい集中し、新たな読書体験を得てしまうかもしれないし、ページをめくるのが難儀で、物干しにもならない半端な高さを持て余した挙句、粗大ゴミになっているかもしれない。などと数秒迷ってみたりもしたのだが、一万円弱という強気価格にさっさと新聞をとじたのである。
 
 読書の姿勢にも人それぞれオリジナリティや相性という物があると思う。トイレでお尻をどうやって拭くか、そんなことに興味を持ったとして、本人から口頭で聞く以外に知るすべはない。それと同じように、自室で完全にくつろいだ状態で本を読む姿勢だって、他人のことなど一切知りようがないのだ。感情をこめて朗読しなければ読み進められない、全裸でなければページをめくれない。そんな特殊な読書人だっているかもしれない。
 ぼくにはちょっとした夢と言うか理想像があって、それはお風呂で本を読むということだ。先の特殊な読書人と似ているような気もするが、湯船につかりながら時間を気にせずに本を読めたら、それはどれほどの幸せだろうと思う。
 ぼくはお風呂が好きだ。体を清潔に保つと言う本来の用途以上に、お湯につかるという行為は、凝り固まった心身を解きほぐすような、何物にも代えられない巨大な効果があると思う。
 それと読書が合わさった時、一体何が起こるのか。
 しかしよくよく考えてみれば、お風呂で本を扱うなんて、指先ひとつ滑らせればすべて終わりである。大事な本を神経をすり減らしながら読むような真似はまったく本末転倒だし、それなら"お風呂でスマートフォンいじる用のカバー"みたいなのを作ればいいかもしれないが、これまたページめくりという難問が立ちふさがる。
 アイフォンとキンドルなら持っているし、別に紙の本にこだわる必要なんてないんだけどね。
 
 電車でも時おり読書人を見かける。そのほとんどは文庫本を手にしているが、立ちながら両手でページを広げている人を見ると、器用だなと思ってしまう。ぼくは吊革につかまらなければ立っていられない性質だから、片手でページを広げつつ、項をめくるたびに吊革から手を離すのが手間過ぎて、通勤中に文庫本を読むなどさっさと諦めてしまった。
 それにしても、人が近くで本を読んでいるとついつい内容が気になってしまう。そっと視線を向け、作者名や内容を1,2行つまみ食いしたくなる。それが例えば、ぼくのお気に入りの作者のお気に入りの作品だったとして、その人に何か気持ちが芽生えるようなことは別にないのだけれど、読書中という無防備感がそういった興味をくすぐるのかもしれない。しかしながら、実際に盗み見るような真似をしたことは一度もないので、電車で本を読む際に、たまたまぼくが隣にいて盗み見られてしまうかもしれない、という心配は杞憂だよ。
 そう言えば以前、ほぼほぼ満員電車の中で馳星周さんの単行本を読みふけっている、読書人上級者らしきおじさんを見かけた。ぼくも非常に好きな作家だから、この人の作品はいつどこで読んでも時間を忘れて没頭してしまうよなぁ、なんてやけに共感したのを覚えている。
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