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優しさってなんだろ

 通勤で電車に毎日片道20分ほど乗るのだけれど、本当にいろんな人を見かける。人をかき分けて我先にと乗り込もうとする人がいれば、まごついている間に逃してしまう人もいる。終電間際の駅はさらにその傾向が強くて、集団で大声で話したり、目がうつろな酔っ払いがいたりして、そんなのを見かけるとできるだけ速やかにその場を離れるようにしている。
 電車で嫌だなって思うとき、大抵は酔っ払いが原因なので、酒気帯び乗車を禁止するような法律ができないかと本気で思っているのだけれど、そうなるとぼく自身、毎週のお楽しみである花金飲みで帰れなくなってしまうから、危なそうな人からはいち早く離れられるよう、改札を通った瞬間からうさぎのように耳を澄まして警戒するしかないのだ。
  今はどうか知らないけれど、ニューヨークの地下鉄はとても治安が悪かったと、何かの記事で読んだことがある。ほとんどの人が車移動だから、電車に乗る人は層か限られてしまい、怪しい人間がわらわらと集まってしまうのだと。
 その記事には写真も載っていて、薄暗い車内のあちこちにゴミが転がり、窓や床には殴りつけるような落書きが走っていた。映画で観るのはワクワクするけれど、乗るのは絶対ごめんである。
 
 電車で座っていると、たまに席を譲ることがある。高齢者が自分の正面とかに立っている時が大体で、特に何も言わずに席を立ち上がって、ドアの付近だとか少し距離をあける。以前は声をかけるときもあったけれど、そうすると大抵の人はお礼を言ってくれるから、気を使わせてしまう気がして何も言わないようになった。それに、中にはどういう理屈か知らないけれど、譲られるのが不快に思う人もいるらしく、やっぱり黙って立ち上がるのが最も無難な選択なのだ。
 実は自分も結構いいとこあるんですよ、なんて言いたい訳ではない。つまるところ、周りの視線とか高齢者の無言の圧力とかに押し流されて席を立ってしまうだけであり、そこにいたわりの気持ちなんて無くて、ただただ無感動に"セキヲユズル"というコマンドを実行しているに過ぎないのだ。
 でもそうは言いつつも、相手からどう思われているのか、やっぱり少しは気になってしまう。「何も言わないで無愛想なやつだな」と眉をひそめる人がいるかもしれないし、「急に席空いたけど、これ座っちゃっていいの?」と困惑を招いてるかもしれない。まぁなんと思われようと、電車を降りる頃には忘れられているのだから、気にするだけ時間の損であるに違いない。
 
 世の中善い人が多い、なんて言うと「お前はどれだけ頭がお花畑なんだ? 」と思われるかもしれない。でも少なくとも、自分が今まで関わってきた職場の人たち、学校の人たちは善い人ばかりだったように思う。ぼくなんかはすっかりそこに甘えてしまう性質で、そんな楽ちんばかりしていてはいけないと思ったりもするのだけれど、いつも思うだけで終わる。
 でも善い人が多いのは、考えてみれば当たり前なのかもしれない。善いという部分には、かなり常識という要素が含まれている。常識を土台にした社会の中で生きていくには、善いというのはパソコンで言う必須スペックみたいなもので、不可欠なものだから、自分のために仕方なく"善い"をやっている人だっているだろう。その逆に一見すると悪く見えるが、本人の中では善いつもりであるという、ずれた感覚ゆえ誤解を招きやすい人だっている。どちらにしろ、てきとうに座った席の隣に根っからの悪人がいた、なんてことは早々あるものではないのだ。
 
 では優しさとはなんだろう。善と似ているような気もするけれど、偽善という言葉がある一方、偽優という言葉は聞いたことがない。善より少し柔らかくて湿り気があって、純度が高いような感覚がある。
 人を説明するときに"優しい"という表現はよく使われる。でもだからといって顔を見ただけで「優しそうな人だね」なんて言われると、ちょっと小馬鹿にされているような気もする。ありふれている割に使い方が難しく、真顔で口にするには勇気がいる。
 優しい人になりたい、もしくは自分はすでに優しい人だ、と自分を意識している人は意外に多いのではないかと思う。自分もできることなら優しく何事にも腹を立てずにいたいな、と思ってはいるが難しい。突然性格を変えることなんて絶対にできないし、どんなに穏やかでいようと思っても、くだらないことで嫉妬が芽生えたり、苛ついてしまったり、そんなことばかりで心が狭い自分にほとほとうんざりする。
 優しいって難しい。優しいを演じることは誰にでもできるだろうが、それであり続けることはもはや才能の域なんじゃないか、とすら思う。
 
 あれやこれや言ってみたが、結局優しさとはなんなのかよく分からない。厳しく見えて「実はこれは優しさなんだよ」なんて言われると、自分が馬鹿呼ばわりされているみたいで「そんなこと分かってるよ!」って叫びたくなるし、外面がいいだけの人を見分けるような眼力もない。
 でも色々な人と関わっていると、極たまにだけれど、はっきりと「この人は純粋に、自分以外の人が傷つくのが嫌で我慢ができないんだ」と感じる時がある。我慢ができないとは、反射的に行動に出てしまう、という事である。誰かが傷つくような場面で、利害や採算を考える間もなく、すかさず言葉が出てしまう、手を差し出してしまう。取り繕いや格好つけなんてない、むしろ不器用にすら映るそんな人を見ると、優しさってこういう事なんじゃないか、と思う。
 どうすればこんな人になれるのか、たぶん雷に打たれて脳みその神経回路が全初期化でもされない限りぼくにはきっと無理だ。だから最初から全部真似しようとか、そんな無謀なことを考えるのは止めて、その代わりに日常の様々なところでそんな人たちの姿を思い描くようにした。嫌なことがあった、腹の立つことがあった、そんな時に「あの人ならどうするだろう」と想像を巡らす。すると意外なほど滑らかに、自分がどうするべきかが見えてくる。自分の感情を挟む前に一拍置くことで、頭がクールダウンされるという効果もあるのだろう。でもそういう理屈で説明する以上に、自分にとってはこの方法が合っているようで、日常の些細なことで心に波風が立つのが少なくなった。
 
 自分を殺しているだけでなんの解決にもなっていないのかもしれないけれど、ぼくにとって”優しさ”に対する答えってのはそういう人達のことで、雲に手を伸ばすような気持ちでコツコツ階段を登りながら、今日もへたくそに生きていく。
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