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宇宙人はやっぱりいる

 秋葉原や中野を歩いていると、まるで銀河系外から来たような、浮世離れしたファッションの人々を時折見かける。一体どこでそんな服を買っているのだろう、と疑問に思うと同時に、無難に固めた自分の服装はなんてつまらないのだろう、と落ち込みそうになる。
 学生の頃は個性的な外見を目指して、古着屋さんでへんてこな服を買ってみたりもしたが、今はそんな遊び心はすっかり枯れてしまい、クレジットカードの請求額とにらめっこしながら、無難な商品を選ぶばかりだ。
 かといって、じゃあどんな服装をしたいの? と訊かれても即答はできない。ロックらしいファッションには憧れるが、鋲とかトゲトゲのリストバンドとか、バンドロゴワッペンを貼り付けまくったような派手な服装は苦手だし、うーんやっぱりユニクロでいいか。となってしまうのである。
 しかしだからと言って、別に妥協して仕方なく選んでいる、と言う訳ではない。ユニクロのスキニーフィットは最近のお気に入りで、色違いを3着持っているし、靴下やパンツのラインナップも豊富でいつも助かっている。
 高校時代の友人におしゃれ意識の高い者がいて、ファッション雑誌をいくつも定期購読しているとか、髪を切りに電車で1時間半もかけるとか、そんな話を耳にしてはお金がかかるものだなぁ、と自分には無縁だとばかり思っていた。しかしその友人が好んで穿いていたのがスキニーパンツであり、10年を経た今ようやく追いつてしまった、と思うとなんだか複雑である。
 そんな彼が今はどんな服装に凝っているのかは分からないが、たとえ銀河系外から来たようなファッションに身を包んでいたとしても、それを宇宙人と比喩したい訳ではない。科学とオカルトの狭間に揺れる、地球外生命体の話である。

 宇宙にロマンを抱いていた幼少時代、宇宙人は絶対いるし、もう地球に来ているし、さらわれて人体実験されても記憶を消されるから気がつかない、と本気で信じていた。堅そうな文庫レーベルからも普通にそんな本が出ていたし、今では考えられないくらいオカルトが流行っていて、僕は誰よりもどっぷりとその沼に浸かっていたのだ。
 しかし今でも宇宙人がいるかいないかと訊かれたら、地球環境がどれほど奇跡的な偶然の上に成り立っていようと、宇宙は相当広いみたいだし、いても不思議ではないでしょ。くらいには思っている。
 こういう話が出るとよく、生命が存在できる環境はものすごい珍しくて、いかに宇宙が広いと言えど地球くらいのものだ。という意見が出てくるが、僕はそれを聞くたびに疑問を抱いてしまう。
 何も地球環境に限定して考えなくとも、水や酸素を必要としない生き物だっているかもしれないではないか。太陽フレアを避けながら、黒点をめぐる渡り鳥がいたっていいし、水分とは別の理屈で伸縮性を持つヘビや、気体中を泳ぐ魚がいたって素敵だ。
 なんの知識もない僕が言ったところで鼻で笑われてしまうかもしれないが、科学においてもこうした考え方は確かにあるそうだ。

 テレビではすっかり宇宙人の特集なんてやらなくなってしまったが、オカルト系ニュースサイトでは今もジャンルの一つとして定着しているから、世紀末もマヤ予言も関係なく、常に一定のファンがいるのだろう。
 昔から変わらないなと思うのは、記録物の質がとにかく悪いことだ。スマートフォンタブレットの性能が上がり、ほとんどの人が日常的に持ち歩いているにも関わらず、UFOらしき飛行物体の映像やUMAの写真などは、ほとんどの場合時代を疑うほど画質が悪い。中にはモノクロだったり、小さな写真を無理やり拡大したような物もあり、荒々しく見せる方がかえって難しいのでは? と思うこともしばしばだ。

 作家の森達也さんが書籍において「オカルト現象は記録しようとすると、まるで何らかの意思が働いているかのように逃げられてしまう」様なことを言っていた。噂の心霊スポットに機材を抱えて行っても、その時に限って何も起こらなかったり、撮れた! と思っても今度は機材が故障して映像が残っていなかったり。こういった事が非常に多いそうなのだ。
 僕はこれを読んで友人の友人、という話を思い出した。
 例えば宇宙人の写真を友人が持っている、という噂話を聞きつけたとする。どうにか見てみたいと友人に話を聞くが、すでに彼は手放してしまっていて、現在所有しているのは彼の友人だと言う。そこで連絡を取ろうと試みるが、ずいぶん前に携帯電話が故障してしまったらしく、それ以来メールも番号も通じない。
 この話にはいくつかパターンがあって、友人の友人に連絡が取れたとしても、すでに別の人に渡っていたり、引越しの時に無くしてしまっていたり、結局どれも真相にたどり着くことはできないまま終わる。友人の友人とはつまりは全くの他人で、それを隠れ蓑にするかのようにオカルト現象に逃げられてしまう、という話だ。
 記録物の画質が軒並み悪いのもそういった理由のためだ。などと言うと子供じみた言い訳のように聞こえるかも知れないが、そのような理解を超える性質があるからこそ、時代の変化にも動じず神秘性を保ったまま残り続けている、と考えることだってできるのではないか。

 つまり真相の解明には自分が当事者になるしかないのだ。UFOを撮りたくてスマートフォンを持ち歩いている訳ではないが、超常現象に遭遇したらすぐさまカメラを起動する準備はできている。オカルトの性質ゆえに2年契約のアイフォンが故障しても困るから、遭遇したくないような気もするが、その時はその時、幼少期からの疑問と引き換えなら、スマホの1台や2台安いものだ。
 カラパイアをチェックしていたら、もうすっかりお昼前だ。空がすっかり晴れているから、散歩をしながら近場で宇宙人のいそうな場所でも探してみようと思う。

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輸入盤CDのシールは何のため?

 洋画ばかり見ていた影響で、子供の頃から音楽も洋楽ばかり聴いていた。レンタル店に行くことは稀で、祖父が僕のために撮り貯めた「金曜ロードショー」などのビデオテープを見るのが常だった。
 その影響かは分からないが、長らく「CDを購入する」と言う当たり前の意識がなく「どうすれば好きな時に映画音楽を聴けるだろう?」と考えたあげく、映画を流しながら近くでカセットに録音したりしていた。現在ならアマゾンやレコードショップでサウンドトラックを注文して終わりだが、そうして手に入れた音源を、テープが伸びるほど何度も聴いていた。

 初めてCDを買って貰ったのは、中学生の頃だったと思う。家ではその頃、生活用品の宅配サービスを利用していて、僕といえばカタログを眺めてはお菓子ばかりせがんで、その都度母さんに断られていた。
 カタログにはエンターテイメントコーナーのような一角があり、流行りの映画や音楽がいつも申しわけ程度に並んでいた。そこにある時、Movie Hits という映画主題歌のコンピレーションアルバムが載っていた。僕は大して収録曲も見ずに、今までにないくらい激しく買って欲しいとせがんだ。どうしてそんなに惹きつけられたのかは分からないけれど、かっこいい映画音楽が大量に入っているに違いないと、勝手に思い込んでしまったからだと思う。
 「曲数の割に安いし……」という事でようやく母さんも折れ、なんとか購入までこぎ着いた。届いてからはCDが擦り切れて薄くなってしまうんじゃないか、というほど繰り返し聴いた。
 今考えると、ロック嗜好の土台はその時に形成されたような気がする。それまではシャウトやディストーションギターなど、激しい音に恐怖を抱いていたくらいなのに、いやはや良かったんだか悪かったんだか。

 その頃からロック音楽にはまり、紆余曲折を経て友人の影響でメタルに流れ着いてしまい、いつからか漁るようにCDを買うようになった。
 当時はまだネット通販にも馴染みがなく、駅前のレコードショップも、メタルなんてあってないようなものだった。そのため月に1度くらいの割合で、渋谷の大型レコードショップに出かけていた。最初はHR/HMの独立したコーナーがあるだけで何だか嬉しくて、大して知りもしないのにジャケ買いして、帰ってから後悔するようなことも少なくはなかった。
 ネットのアマゾンやHMVで輸入盤を買うようになったのもその頃で、1度そうなるとわざわざ電車を乗り継いでCDを買いに行く、なんてことはあっさり無くなった。国内版に比べると千円以上も安いのだから、送料を含めても痛くはない。
 僕は来る日も来る日も、マイスペースで芋づる式にバンドを視聴しながら、輸入盤の値段と希少性を天秤にかけて、ブックマークしたり購入したり、そんな日々を以後7年(!)近く送った。
 その時買ったCDは今はほとんど手放してしまい、思い出ごと二束三文で売ったのかと思うと時折後悔しそうにもなるけれど、それはまた別の機会に書こうと思う。

 ところで輸入盤を買った際に、ただ1つだけ憂鬱で仕方ない点がある。早く聴きたくてたまらない気持ちをへし折るが如く、ケースの淵に貼り付いているセキュリティーシールである。
 爪で剥がそうものならノリが残り、うまく捲れても引っ張っている途中で裂けて、更に剥がす手間が増えるという、押しても引いても駄目な実に困ったやつなのだ。
 一応すみの方に「PULL」と書かれた、いかにもそこから剥がして欲しそうな小さなでっぱりがあるのだが、その通りに従ったところで綺麗に剥がせたためしがない。ミステリーで言う所のミスディレクションというやつだが、温厚だと言われる自分でもいらいらしてしまうくらいだから、気が短い人だったら怒りに任せてCDを叩き割ってしまうんじゃないかと、心配になってくる。
 セキュリティーシールと言われているくらいだから、防犯の面で役立っているのかもしれないが、せめてもう少し粘着力を弱くするとか、厚みを持たせて裂けにくくするとか、品質の改善を行ってもらいたいものだ。輸入盤を買い始めた頃からそんな感じだから、すでにかなり長いことあのシールが使われているのだろう。誰かが署名運動でも始めるまでは、僕はシール剥がし液を片手に持ちつ持たれつやっていこうと思う。

 その昔、駄菓子屋さんには「かたぬき」というお菓子があったそうだ。僕はやったこともなければ実物を見たことすらないのだが、セキュリティーシールをつまみながら、どうにかノリが残らないように、裂けてしまわないようにと慎重に剥がしていくのは、まさに現代の「かたぬき」ではないか。
 そう考えると、あれほど憎かった輸入盤シールが急に恋しくなってくる。近頃 bandcamp ばかり利用しているせいで、すっかりCDを買う量が減ってしまったが、次に輸入盤が届いたときには、きっと新たな気持ちでシール剥がしを行えるに違いない。今まで何百回とやってきて、ただの一度も綺麗に剥がせたためしがないのだから、歯ごたえは十分。待っていろ輸入盤!

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めがね

 小学生の頃は視力が自慢だった。年に一度の検査では、検査票の1番下から2番目くらいまではすらすらと答えることができたし、結果はいつも2.0だった。勉強も運動も並程度だった自分にしては珍しく、周りよりほんの少し優位に立てる気がして、体重測定の次くらいに嫌いではない検査だった。
 当時、クラスのメガネ率は今よりかなり少なかったように思う。メガネをしているだけで、勉強ができるとか真面目そうだとか、でもスポーツは苦手だとか、根拠のない印象を抱かれる人が多かった。僕もメガネだけを理由に勉強を聞きに行ったら、嫌な顔をされたことがあるから、ファッションに関わらずこういうことは迷惑なのだと学んだ。

 眼鏡にもたくさんの種類があるが、まるで芸人のような淵の太い大きな眼鏡を見ると、変わったデザインがあるものだと不思議に思ってしまう。それも街中で、流行りのおしゃれで固めているような人が付けているのを見るとなおさらだ。まるで大正期のロイド眼鏡のようだし、変わった組み合わせに思えてしまうからだ。
 しかし大きな眼鏡には、相対的に顔を小さく見せる効果があると聞いた。なんでも、眼鏡の大きさは普通はこのくらいだ、と言う無意識的な認知があるから、そのような錯覚が起きるそうなのだ。
 しかしそれはつまり、大型眼鏡が主流になれば錯覚効果がなくなってしまう、ということではないか? みんなが気づいて眼鏡屋さんに雪崩が起きる前に、こっそり駆け込んでおく必要がある。

 僕が眼鏡をかけ始めるようになったのは、21歳の頃だ。高校生の時からパソコンにかじりつく様になったせいで、かつては自慢だった視力は見る影もなくなってしまった。当時、僕以上にパソコン(ネットゲーム)をやりまくっていた友人はなぜか視力が落ちず、不平等を感じたりもしたが、現在CGアニメーターの友人にも同様の者がいて、一定数そのような人々はいるらしい。体質なのかは分からないけれど、僕が物心つく前から父親も随分と分厚い眼鏡をしていたから、遺伝的な影響もあるのかもしれない。
 眼鏡が必要になったからと言って、パソコン•スマートフォンから遠ざかる訳もなく、当然のごとく視力はそれからも落ち続けている。当初は外出時だけ付けるようにしていたが、次第に部屋の中、食事の席、パソコンの前においても手放せなくなくなり、今ではお風呂と寝るとき以外は常にかけている。

 眼鏡さんが不意に取り外すと、まるで別人のように見えて戸惑うことがある。似合うとか似合わないとか、そういうのでは説明がつかないもっと強烈な変化を感じてしまうのだ。しかしだからと言って、あぁこれがこの人の本当の相貌だったのか。と思う訳ではなく、いくら面と向かってお話をしても違和感は拭えず、結局眼鏡さんが再び眼鏡をかけるのを待って、ようやく安堵するのだ。
 第一印象に眼鏡がなければこんな事にはならないと思うが、それなら自分は一体、不意に眼鏡を外したらどう思われてしまうのだろう。第一印象を眼鏡から入った人は、やはり違和感を抱くのだろうか。
 僕ほど動揺はしないとしても、いつもと違う印象を持たれてしまうとしたら、それがどんなものか気になってしまう。恐らくそれは、眼鏡をしていた方がいいとか外した方が自然だとか、そういう単純なものではないと思うから、尋ねたところで困らせてしまうだけかもしれないけれど。

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もやしという野菜

 野菜は好きだし、なんだか体によさそうだから毎日食べるようにしている。大抵は肉と一緒に炒めるのだが、みるみるかさが減っていくのが楽しくて、ついつい火を通し過ぎてしまう。フライパンから溢れるほどの大量の野菜を、こうする事でいとも簡単に食べ切れてしまうのだから、スーパーのお会計も忘れて特をした気分になる。
 キャベツやほうれん草、小松菜など葉っぱものを買うことが多いが、ナスや玉ねぎ、ピーマンなども時折食べる。玉ねぎは火を通すと、好みの問題で途端に食べられなくなるから、生のままスライサーで薄くしてドレッシングをかける。料理なんて炒め物以外に作ることがないから、スライサーはすっかりオニオンサラダ専用機と化している。百貨店で1300円もしたのにもったいないな、とも思うのだけれど、だからと言って約2畳の狭いキッチンでは新たな食事を開拓する気もおきず、ひたすらオニオンスライスに従事させている。
 それにしても、野菜を上下に動かすだけですぱすぱ薄切りができてしまうのだから、スライサーもかなりの切れ味だ。透けそうなくらい薄くなった野菜が、次々と皿に盛られていくのはなかなかの快感で、思わず勢いがついてしまうのだが、気を抜いていると指をすっぱりいきそうになって血の気が引くこともままある。火に油に刃物に、調理という行為には危険がつき物なのだと、スライサーを手にしたことにより、僕はそんな当たり前をようやく知ったのだ。

 かつて料理人の友人が「仕事中に怪我をしても治す暇がないから、大抵は接着剤でねばしてしまう」と言っていて、軍用航空機に用いる素材開発中に偶然、瞬間接着剤の元となる物質が開発され、軍事医療に用いられるようになった。(今はどうか分からないが)という話を思い出したが、医療に用いられるのはもちろん人体に安全な原料で作られたもので、ホームセンターの数百円の製品が大丈夫なのかは知らないけれど、そういった使い方もできるのだとやけに感心してしまった。
 デスマッチ系のプロレスラーやキャンパーにも愛用者がいるそうだから、その手の世界では割と知られた使い方なのかもしれないが、傷跡が残りそうだし、血が苦手な僕はとてもそんな真似はできそうにないが。

 近頃僕は、健康系の情報サイトなどを見るのが趣味になりつつある。カメラの話ばかりしているが、写真はあまり撮らないような人と似たようなもので、実践するしないの以前に、手段が目的になってしまっているのだ。
 そういった情報でよくよく目にするのが野菜の話題である。ちょっと検索してみるだけで、さまざまな噂話が出てくる。「コンビニのカット野菜には栄養がない」「野菜ジュースをいくら飲んでも、野菜を食べたことにはならない」「熱を通すとビタミンが死ぬから、生のまま食べたほうがいい」などなど、常識的なことから怪しげなことまで、いくらでも情報があふれている。

 中でも僕が以前から疑問に思っていたことがある。それはもやしの栄養価についてだ。昔から僕の周りには「もやしには栄養がある」と言う人と、「もやしってほとんど水だから食べても意味ないよ」と言う人の2種類がいて、よくある「この世には2種類の人間がいる。もやし……」という状態だったのだが、つまるところどちらの意見が正しいのか、20年来の疑問に答えは出ていない。
 僕は普段もやしを食べない。もやしと聞くと、パックサラダやレンチン弁当の嵩増しに用いられる天然素材という印象があり、「わざわざ買うなんてもったいない」と感じてしまうのだ。野菜中、群を抜いて安いにも関わらず。
 そもそも、もやしという響きが頼りない。「もやし男」などという言い回しがあるせいなのかは分からないが、指ではじいたらぽっきりと折れてしまいそうな、かといって無常をたたえるような儚さもなく、同情心すら跳ね除けるような弱々しい雰囲気しかない。
 透き通るような白い表皮は綺麗と言えなくもないけれど、カボチャやピーマンみたいに濃い色をしている方が、いかにもどっしりとした存在感がある。甘くもすっぱくもなく、むしろ硬かったり苦かったりするような植物でも、がんばって食べてやろうという気持ちになるのは、そういった食べ物側の主張があるからなのだ。

 しかし、「キュウリには栄養(もしくはカロリー)が少ないあまり、ギネスブックに載っている」と小耳に挟んだことがある。それが本当なら、もはやなにも信じられないではないか。滅多にお菓子を買ってもらえなかった子供時代、キュウリに味噌をつけてポリポリかじるのが好きだった。ギネス急に意味のない食材でお腹を満たしていたのかと思うと、なんとも涙ぐましいではないか。
 しかし栄養がないと言うのなら、それを逆手にダイエットに役立てることができそうだ。日に何度もお菓子を手に伸ばしてしまうような、巨漢のカウチポテト族が間食をキュウリに置き換えれば、どんな痩せ薬や合成甘味料より効果がありそうな気がする。大好きなお菓子を、辛くもしょっぱくもないキュウリに置き換えるような、そんな意思の強い者がカウチポテト族になるのかは疑問だが。

 好き勝手言ってしまったけれど、昨日はいわゆる華金飲みで、串物屋でたらふく食べて飲んできた。レモンサワーには果汁感が皆無だったけれど、味噌の絡んだ肉もやし炒めは非常に美味だった。おいしさを感じるのは舌だけではなく、歯茎に伝わる食感も大事なのだと、上司たちの会話に熱心に聞き入っているふりをしながら1人で感心していたのは、たぶんばれていないと思う。

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本屋さんの思い出

 大きい本屋さんはわくわくする。静かな店内が好きだし、巨大な本棚はどこも整然としていて、清潔感に気持ちが空くような感覚を覚える。
 小学生の頃は読書好きの子どもだったが、だからと言って読むのが特に速いという訳でもなく、社会人の今はさらに読書量が減っている。
 つまり生涯に読める本の数などたかが知れていて、いくら沢山の本を前にしても、そのほとんどは読了できずに終わってしまう。しかし書店に足を運べば、装画を間近で鑑賞することができる。ぱらぱらとページをめくることができる。「本の価値は中の情報にこそある」と言っていた人がいたが、単行本の棚などを眺めていると、個性的な装丁に惹かれずにはいられない。

 大抵の本屋さんは、1ミリの隙間もなく本棚を維持している。余計な紙が1枚でも入ろうものなら誰かが死んでしまう、とでも言うかのように、時に取り出すのに力を要するほど、ぴったりと詰め込まれている。
 だから本を手に取る際は、ページをめくる以上に細心の注意を要する。取り損ねてカバーに折り目をつけてしまわないか、力を込めるあまり天に爪が食い込んでしまわないか、焦らず静かに指先を伸ばす。特にきつめの本棚などは、無事に手に取れただけで、ひと仕事終えた気になってしまう。
 そうして取り出した本の表紙をじっくりと眺める。あらすじなど聞かなくても、タイトルと装画の間から物語が浮かび上がってくるようで、内容とは全く関係ないお話が、いつのまにか頭に生まれてくる。だから、かねてより想いを寄せていた本をついに入手し意気揚々と読み始めると、想像していたものと全く違い、ムムムと唸ってしまうこともしばしばだ。単なるぼくの勝手な思い込みのせいであるから、作者の方には本当に申し訳ないのだけれど、なかなかこの癖は治らない。しかし、そんな意外な体験ゆえに記憶に焼き付いている作品も数多くあるから、決して悪いことばかりではないのだ。

 小学生の頃、近所の本屋さんに遊びに行くことが多かった。家の周りには遅くまでやっているお店がほとんどなく、唯一その本屋さんだけが深夜まで営業していた。門限が厳しかったため、両親の気まぐれで夜分に連れて行ってもらった時などは、まるで異世界を覗いているような感覚に陥り、気持ちがはやるのを抑えられなかった。小学生の頃のぼくにとって、夜中に明かりのついたお店に入る、というのはそれほど稀有な体験だったのだ。
 小さな田舎の書店という佇まいで、いつ見てもラインナップはほとんど変わらない。けれど、ぼくが立ち止まるのはいつも同じ、文芸の棚だった。大抵は表紙を眺めるだけで終わるが、年に数度、お金を持って訪れる時は優柔不断にいつまでも行ったり来たりしていた。お店の人から見れば迷惑に違いないし、ともすれば迷子を疑われてしまいそうだが、顔なじみの子供だからと大目に見てくれていたのだろう。
 ようやく貯めたお小遣いをはたいて買うのは、いつもハードカバーと決まっていた。文庫本なら同じ金額で2,3冊は買えるだろうに、どうしてだかハードカバー以外を買う、という選択肢がなかったのだ。恐らく祖父に読ませてもらう本がいつもそうだったから、文庫はなにやら難しそうな大人が読む本、という印象があったのかもしれない。

 当時からずっと気になっていた本がある。京極夏彦さんの京極堂シリーズと、大沢在昌さんの新宿鮫シリーズだ。どうしてかというと、多くの書店に平積みされていて、そのおどろおどろしい表紙を頻繁に目にしていたからだ。
 京極堂シリーズの講談社文庫版の表紙は、張り子人形作家、荒井良さんの作品だ。今でこそ静謐な美しさに目を奪われるが、当時は幽霊が人を殺しまくって食べたりするさぞ恐ろしい小説なのだろうと、ひとりで震え上がっていた。新宿鮫シリーズの講談社ノベルス版は、荒々しいノイズ調に加工された見るからにおぞましい表紙から、ゾンビが人を殺しまくって食べたりするさぞグロテクスな小説なのだろうと、ひとりで縮みあがっていた。
 そんな小説の内容を知るのは、実に15年近く後になってからだ。当時ぼくが抱いていた印象とは全く違ったが、過去の自分と繋がるような気がして、内容は勿論のことながら非常に楽しく読み進められた。

 アルバイト先の友人と本屋さんに行ったとき、「あ、ヤバい。青木まりこ現象だ。ちょっとっ!」と言ってそそくさとトイレに駆けこまれたことがあった。青木まりこさんとは一体誰だと思ったぼくは、すぐにネットで検索をした。結果はすぐに分かった。なんでも、書店に入ると便意を催す原因不明の現象に付けられた名前らしく、彼女が最初に紙面上で訴えたことから、そのような名称がついたのだと言う。
 なんだか怪しいと思ったぼくは、帰って来た友人に事の真偽を尋ねたが、安堵の表情を見せるばかりで、やはり彼も青木まりこ現象を完全に信じているという訳ではないようだった。そもそもぼくらのアルバイト先は本屋さんだ。DVD・CD・玩具なども取り扱うが、売り場の半分ほどは書籍が並んでいる。青木まりこ現象が本当なら、毎日仕事どころではないはずだ。
 しかし、青木まりこさんがそのように感じたのはなぜだろう。紙の匂いがもたらす反射作用? 静かな店内故に、トイレに行ってはいけないという心理的な強迫感から来るもの?
 いずれにせよ、青木まりこ現象という面白おかしい名前が付けられ、広まってから日本中で患者が増えたことは間違いないのではないか。思い込みの力は強烈らしく、プラシーボという言葉は有名だが、その反対のノーシーボ効果を多くの人が受けてしまった、というのが真相のような気がする。

 ぼくは本屋さんに頻繁に足を運ぶが、それが原因で便意をもよおしたことは無く、幸いにも青木まりこ現象患者ではないらしい。それは良かったのだけれど、幼い頃はオカルトや超常的なことにいたく傾倒していたから、当時の自分が現象を耳にしていたら、もしかしたら信じる気持ち故に患者になっていたかもしれない。
 今でもそういった怪しげな話題は大好きだが、昔ほどときめきを感じなくなってしまったのが、時折寂しくなる。

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