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製造業という仕事

 普段は気に留めることもないが、紙コップや段ボールひとつ取っても、昼夜作り続ける工場があり、設備を動かす人々がいる。テレビ番組などで製造業の特集を見かけると、毎日当たり前のように使っている製品が、数々のアイデアと労力の上に存在することが分かり、面白い半面、世の中知らないことばかりだと反省したくもなる。

 実家の近くには巨大なビール工場があり、小学校低学年の頃に、1度だけ学校行事で見学に行った。巨大なタンクや入り組んだ配管など、いつも敷地の外から目にしている設備が間近で見られることが楽しくて、小難しい展示物やガイドさんの話もそっちのけで、小綺麗な見学コースから外れた所にばかり興味をそそられていた。見学の最後にはドリンクを振る舞われ、オレンジジュースを何度もお代わりしたことを覚えている。
 しかし当時は当然のことながら、裏方の仕事など想像だにしていなかった。設備は24時間光を放ち、深夜でもフォークリフトが忙しなく動いている。こんな夜中まで音がして、ビール工場の人はちゃんと眠れているのだろうか。なんて呑気な考えを抱いていた自分が現場を知るのは、実に15年以上後になってからだ。

 神奈川県に住んでいた頃、ぼくは製造業に2年半ほど携わっていた。車用のバッテリーを作る工場で、契約社員として現場の設備オペレーターを務めていた。製造業と言っても、実際に製品を作るのは機械だ。職人的なものを期待していた自分は、スイッチを押し、原料の出し入れをし、たまに掃除やメンテナンスをするだけの業務に早々飽きを感じてしまったが、慣れればぼくのような下っ端の場合、仕事のほとんどが反復作業のため、空想に浸りながら業務を行える環境を天職のように感じたこともあった。
 遅刻をしたり、なにかとだらしのなかった自分が、今更こんな舐めたことを言って、当時の上司に見られでもしたら大目玉だろうが、先輩も上司もどういう訳か、若い頃からブイブイ言わせてそうな、いけいけな人が多かった。飲みの席でそう言った話題を振られると、大して話すこともないぼくは、疎外感を覚えたりもしたのだけれど、1番年齢が若いこともあって多くのことを大目に見て貰っていたのだと思う。

 製造業で最も忌避されるのは事故だ。建物の壁には「安全第一」という巨大なパネルが掛けられ、設備のいたる所に注意喚起の文言が貼られている。タイムカードの横には、全国の系列工場で起こった事故や怪我の速報書類が置かれ、出勤毎に目を通し、更新があればその都度別紙にサインをしなければならない。リフトの下敷きになったり、設備に指を挟まれたり、聞いてるだけで寒気がしそうな事例もあり、意識を高めるのには役立っていたと思う。
 それでもひとたび事故やミスが起これば、現場は大変なことになる。仕事のほとんどは単純な反復作業ではあるが、同じ行為を何千何万回と行なっていると、どうしてもミスが起こる。その何千何万分の一のミスを取り除くために、手を打たなければならないのだ。現場の至る所に注意喚起が貼られているのは、いわば歴史のようなもので、何らかのミスが起こるたびに、設備を変える余裕はないから張り紙で対策をしたことにしよう、という訳なのだ。製造業の現場は、謝罪すれば済むというものではなく、ミスが即損失となり取り返しがつかない、シビアな仕事でもあるのだ。

 ぼくは3年を待たずに退職した。1週間ごとに昼夜を逆転する交代勤務に体が慣れず、人には言いたくないようなことも色々あって、辞めざるを得なくなった。というか辞めさせられた。
 課長に呼び出され、契約更新ができない旨を聞かされた翌日、目が覚めてから起き上がるのに1時間ほどを要した。身体中が鉛にでもなったかのように重く、指1本動かすのさえ大変な苦労だったのを覚えている。精神的な影響だろうがこんな経験は初めてのことで、このまま起き上がれずに餓死してしまうのでは、という恐怖に駆られた。

 そんなことがあってから闇の2年半(暗黒同人時代)を経て、首の皮1枚生還し今にいたるのだが、当時のお世話になった先輩方の顔も、職場の景色も、仕事の手順も、すべて昨日のことのように鮮明に覚えている。忘れっぽい自分がなぜ、と不思議に思うが、それだけ闇の2年半が空虚な時間だったということかもしれない。

 今の生活はまだまだ慣れないことも多いが、これ以上ないくらい充実している。この時のために過去があったと思えば、大抵のことは笑い飛ばせると、過去にこだわってしまう悪い癖をさっさと無くしてしまいたいものだ。

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大丈夫ですか? と訊かれるのは

 見知らぬ人に話しかけられることは、ぼくにとってそれほど珍しいことではない。どちらかと言うと陰気に思われることが多い自分だが、近づきがたいほどオーラを放っている、という訳でもないらしい。フレンドリーな方には、同じ分だけ親しみを返したいとは思っているが、そんなぼくでも時折首を傾げたくなる時がある。
 それは全くの他人に突然「大丈夫ですか?」と訊かれた時だ。

 覚えている限りこんなことが2回ほどあって、1度目は原動機付自転車の免許試験を受けに行った時で(なんと10年近く前)、隣の席の恐らく同い年くらいの男性に書類の記入方法を訊かれ、答えた直後にぼくが質問を返したら「大丈夫ですか?」。2度目はつい先週のことで、仕事帰りに繁華街を歩いていたら、キャッチに声をかけられ「結構です」とあしらったら、急に神妙な顔つきで「大丈夫ですか?」。
 もしかしたら本当に心配してくれているのかもしれないから、別に腹が立ったりはしないのだけれど「いったいぼくの何が、そんなにダメそうだったのだろう」と、しばし思い悩んでしまった。
 ぼくはいずれの場合も「ええ、まあ……」みたいな曖昧な返事を返したが「もう辛くて辛くて何もかもダメなんです」とでも言っていれば、お金でも貰えたのだろうか。それはそれで怖い気もするけれど、たいして親しくもない人間に声をかけるからには、あらゆる回答を想定するべきだと思うし、ぼくにはそんな臨機応変に対応できる自信がないから、他人に「大丈夫ですか?」なんて訊くことはこの先もないだろう。

 それにしても、心の具合は本人の知らぬ間に顔に出ているもので、同じような振る舞いが、ある時は怒っているように見えたり、ある時は悲しんでいるように見えたり、そういうのはやはり、表情のわずかな違いを無意識に感じているからだと思う。
 「考えていることが顔に出やすい」と言われたことがあるが、そういうのはなかなか自分では気づけないもので、良いのか悪いのかも分からず少々悩んでみたりもしたが、無表情すぎて不気味に思われるよりはよっぽど良いだろうと、今は気にしないでいる。

 無表情を表すに「能面のようだ」と例えることがある。ぼくはあの森閑とした佇まいが好きで、時折意味もなく画像検索したりして楽しんでいるのだが、演者の立ち居振る舞いによって様々な感情を見せる道具なだけあって、人間のそれとは全く違う。人の顔写真を面にした所で同じようにはならないのだから、全く不思議なものである。
 今では疎遠になってしまったが、かつての知り合いに、雰囲気的な比喩ではなく本当に能面(小面)のような顔をした女性がいた。自撮りが好きな方で、SNSに頻繁に顔写真や動画を上げていたが、ぼくはそれを見るたびに「お面が生きていたら、きっとこんな風に動くのだろうな」と、ひとり感心していた。
 色白の小奇麗な方だったが、ある時を境に唐突にSNS上から姿を消してしまい、今はどこで何をしているのかさえ分からない。もしもすれ違うようなことがあれば、例えそこが渋谷のスクランブル交差点のど真ん中であろうと、気がつく自信はあるのだが。

 親しい人に「大丈夫?」と尋ねられると、反射的に「大丈夫、大丈夫」と言ってしまう。調子が悪そうなのを察した上で声をかけてくれたのだから、そんな時くらい自分のダメそうな所を話してもいいのかもしれない。
 しかしぼくのダメな所は、自分が甘えるばかりで人の「もうダメ」を受け止められない所なのだ。一方通行の関係ではいつまで経っても対等にはなれないし、そんな所に信頼なんて生まれるはずがない。
 「大丈夫ですか?」なんて訊かないまでも、人の悩みを真剣に聞けるくらいの心の余裕は、常に持っていたいものだ。

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やっぱり水が飲みたくなる

 毎朝通勤途中に水を買っているなんて、学生時代の自分が知ったら、なんて愚かなことにお金を使っているのだと頭を抱えるだろう。2リットルの天然水をレジにぼん、と置き、100円玉を取り出して「袋はいらないです」と言う。同じコンビニの同じ店員さんだが、こう言わないと必ず袋に入れられてしまうのだ。電車の中で喉がすでに乾いているから、待ちきれずに道ばたで飲むこともあったが、一度会社の先輩に見られてしまい「ワイルドだね」と言われてから控えるようになった。

 なるべく冷たい水は飲まないようにしている。喉は爽快だが体が冷えてしまう気がするのだ。とは言っても、早朝に白湯を飲むのがいいと聞き1週間ほど試してみたことがあったが、特になにも変わらなかったから、ぼくの鈍感な体には無意味なことかもしれないが。
 毎朝水を買うと言ったが、ほぼ毎日勤務中に2リットルを飲み干していると言うことである。もっとも季節によって消費量は大きく変わるから、寒くなってきた近ごろは3分の1くらい余って翌日に持ち越すこともしばしばだ。「今日はまだ会社に余りがあるから買わなくていいな」などと思うとちょっと特をした気分になる。

 高校生の頃、いつも髪型を必要以上にキメている友人が「美容師はカバンにミネラルウォーターを入れている人が多い」と言っていて、それを聞いたせいか「わざわざ水を買うなんてお洒落を気取っているみたいだ」という印象がぼくの中にはあった。
 でも今のぼくなら、なぜお金を出してまで水を買うのかがよく分かる。それは水が飲みたいというより、甘いものを飲みたくないという消極的な考えのためなのだ。自販機で砂糖や合成甘味料の入っていない飲み物を選ぶとすれば、お茶、ブラックコーヒー、水、以外にはちょっと思い浮かばない。夕方以降カフェインを摂ると睡眠に影響するから、必然的に水一択となってしまうのだ。
 健康にこだわる訳ではないけれど、清涼感にごまかされた砂糖の塊を飲んでいるのかと思うと、おいしいなんてとても思えない。糖尿病への恐怖心が、ぼくをミネラルウォーターへと導いているのだ。別に健康診断で指摘されたとか、お医者に何か言われたとか、そういう訳ではないのだけれど。

 自分が水を買うようになってからも「わざわざミネラルウォーターを買う人なんて、健康オタクか変人くらいなもんでしょ」と思い続けているが、思い返してみればテレビCMや街中の広告など、ミネラルウォーターに関する宣伝は思いの外多い。何万年の時を超えて山奥から湧きあがろうが、アルプスの渓谷から流れ出ようが、水は水なのだ。水道水と比べたって驚くほど味が変わる訳でも、身体に良いという訳でもない。
 それでもお金をかけて映像を作り、大抵の食料品店にはラインナップとして並んでいるのだから、やはり一定の人気はあるのだろう。最近では水の定期宅配や、ウォーターサーバーのレンタルサービスなども頻繁に見かけるから、ちょっとした偏見を抱いているぼくの方が、もしかしたら時代に遅れているのかもしれない。

 数年前、神奈川に住んでいた時は水道水がまずかった。だからもっぱら近所のスーパーで麦茶を買い込んでいたのだが、東京に住む今は特に気にもせず毎日ごくごく飲んでいる。ボトルに詰めて持ち歩こうとまでは思わないが、飲むのがおっくうになるほど不味いという訳でもない。引っ越した当初は、海が近かった神奈川よりも水がおいしいことに衝撃を受けたが、なんせ築50年の亀裂だらけのマンションだったから、設備上の問題だったのかもしれない。
 休日は大抵出かけるが、外を歩いているとすぐに喉が渇いてくるので、ミネラルウォーターを2、3回は買うことになる。1本当たり110円としても、それが毎回であれば結構な出費になる。かといって、水筒が入るほどぼくのカバンは大きくはなく、そもそもあれこれ物を身に着けて歩くのは苦手なので、お金と引き換えに身軽さを買っているのだと自分を納得させている。

 ところで、水を飲むときに息苦しさを感じる人はいないだろうか。ぼくは割と頻繁に、水を飲んでいると息が詰まるような錯覚に陥ることがあり、ちょっとした悩み事だったりする。「そりゃあ飲みながら息はできないのだから当たり前だろう」と思われるかもしれないが、水の底に沈んでいくような感覚は気味が悪く、そんな時はいつも踏ん張りながら喉を鳴らしている。
 幼い頃は異常なくらい水が怖く、プールの授業が憂鬱で仕方がなかった。もしかすると、過去のトラウマのような記憶が無意識に棲みついているのかもしれないが、コーヒーやお酒や牛乳など、味が付いている物なら全然平気なのだから、まったく奇妙なものである。

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悪口なんて黙っていろ

 ネガティブな事を貯め込んでいると、往々にして世の中で自分だけがこんなひどい目に遭っている、なんて思考に転がってしまうのが常だ。そんな時に人の辛い話を耳にすると「自分だけではないんだ」なんて不謹慎にもちょっと安心して、そんな人の不幸をすするような自分がとんでもなく情けなく感じるが、だからと言って振り払えるほど強くもない。
 愚痴とか批判とか否定とか、色々な表現で人は悪口を言う。最初は正論をかざしているつもりでも、段々とヒートアップしてくるとつい口が滑ってしまうのだ。自分も苦い思い出は一つや二つではないから常々気を付けようと思っているのだが、例え人の話を聞いている時でも、相槌を打ったり笑って答えたりしたらそれは恐らく同罪であるから、悪口から完全に遠ざかると言うのはなかなか難しい。

 悩み事は解決するしないは別として、誰かに聞いてもらうのが最も心の負担を軽くする、と聞いたことがある。確かにそうだと思うし、そもそも解決を求めるのと人に聞いてもらうのとはまったく別の欲求なのだ。勝手だけれど、悩み事をようやく打ち明けても、見当違いなアドバイスに遮られたり、「もっと辛い人だっている。君は甘えている」なんて批判されようものなら、きっと話した事を後悔する。
 それなら愚痴はどうだろうか。嫌な目にあったり辛いことがあったりすると、誰かに話したくなる時がある。SNSなどでも時折そういう発言を見かけるから、きっとそう考えているのは僕だけではないのだとは思う。
 しかしそれらを傍観していても「この人は貯め込んでいたことを吐き出して、きっと気分が晴れたのだろうな。解決に向かっているな」と感じたことは一度もない。嫌な話は耳にするだけでダメージを負うし、そんな劇物を発信しながら無傷でいられるはずがない。
 ある精神科の先生が愚痴は話さない方がいいと言っていた。言葉にする、すなわち外に出力するというのは記憶を焼き付ける行為であるから、人に話したりネットに書き込んだ分だけ忘れられなくなってしまうのだと。僕自身、愚痴や悪口を人に言って気分が爽快になったためしがない。それどころか、嫌な事を人と共有しようなんて相手からすればいい迷惑ではないか。

 ではそういう時はどうすればいいのか。ひとりで抱え込むしか方法がなく、他人が全く無力なら解決なんてできないじゃないか。と思われるかもしれないが、決してそんなことは無いと僕は考える。
 親しい人と会ってまで、わざわざ愚痴なんて垂れ流す必要はない。ただいつもの通り、楽しい事を話せばいいのだ。ひとりで本を読んだり映画を観たりしても、ふとした瞬間に蘇ってしまう鍋底にこびり付いたような嫌な記憶が、料理を囲みながら笑い話でもしていれば、お腹が膨れる頃にはすっかり消え去っている。(とまではいかなくとも、多少薄まっているには違いない)
 覚えるのが苦労だと言う人は多いが、忘れるのはそれ以上に大変だ。ならばできるだけ考えない時間を作った方が、絶対に有意義だと思うのだ。

 悪口は結構笑い話にもなる。バラエティ番組なんてほとんど見ないが、そういうのを好む人ほど言葉遣いが乱暴になる気がするのは、ただの偏見だろうか。
 映画評論を時折聞くが、そんな文化的な場面でもやたらと批判的、攻撃的な人は多くいる。多少尖っている方が名前が売れるのかもしれないが、もっともらしく批判(もはや個人的な悪口)を撒き散らしながら、結局それを食い物にしているなんて恥ずかしくはないのかなと思ってしまう。

 普段から悪口や批判ばかり言っている人は、僕は絶対に損だと考える。話を聞いているその場ではつい頷いたり、よっぽどの事には笑ってしまったりもするが、後でひとりになった時に必ず「僕もきっと、僕がいない場では同じように悪い事ばかり言われているのだ」と感じるからだ。一度そう思いはじめると、楽しかったはずの時間がさざ波のようにじわじわと黒く塗りつぶされて、元に戻らない。
 糾弾するつもりなんて毛頭ないし、そもそも僕が偉そうに言える程人間できちゃいないのだけれど、心の隅っこに置いて時折思い出すくらいには、これから変わっていきたいと思っている。

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髪を伸ばして振ってみたい

 へヴィーメタルを聞くようになって十数年が経過するが、ぼくにもやはり長髪に憧れていた時期があった。剛毛質の両親からしっかりと受け継いだぼくの髪は、さらさらと言うには程遠く常にもじゃもじゃという感じで、自分なりに色々なシャンプーや整髪料を試してみたり、美容室で縮毛矯正にお金をかけてみたりもしたが、結局今ではシャンプーすらも使わないという、いわゆる湯シャン派ナチュラル志向という形に落ち着いた。

 そもそも海外ミュージシャンとぼくとでは髪質(特に太さ)が全然違うのである。長髪を振り乱しながらギターをかき鳴らす姿には憧れるが、ぼくが真似をしたところでモズクが暴れているようにしか人の眼には映らない。楽器を諦めたぼくはせめて見た目だけでもと長いこと足掻いていたが、間違った方向に頑張っても時間とお金を浪費するだけなのだ。


 春頃になると、テレビや新聞などで脱毛サロンの広告を頻繁に見かけるようになる。大抵は女性向けで、チラシには白肌のまぶしいモデルが大写しになっているから、そちらの方に目を奪われてしまうのが常なのだが、そもそも人間は哺乳類の中でも非常に体毛が薄い。

 以前生き物系ニュースサイトでハダカデバネズミ(ひどい名前だ)というネズミが紹介されているのを見かけたが、名前の通り体毛がなく不気味な姿をしていて......というのは単なるぼくの感想で、哺乳類において体毛がないというのは、名称の一部になるほど際立った特徴なのだ。
 自身の体毛に神経質になる一方、そこら辺の猫や犬が厚い毛皮で覆われていることに普段疑問を持ったりはしない。顔や指先まで毛に覆われるとは一体どんな感覚なのだろう。彼らから見たら人間は、やけにつるつるで不気味に目に映るのだろうか。いっそ人間も身体中を覆い尽くすくらいの毛量があれば、体毛に気を使ったり脱毛サロンに行くこともなくなるのかもしれないのに。
 
 やはり中途半端に生えていることが、気になってしまう最大の原因なのだと思う。頭髪が薄いことを示すに「禿げ散らかす」という表現がある。最初に言いだした人間の文学的素養さえ感じる、実に秀逸な言い回しだと思う。「禿げ整える」でも「禿げ汚す」でもない、雨が降ったら流れ落ちてしまいそうな儚さと、それを笑いに転換するこれ以上の表現はないのではないか。
 眩しいほどの禿頭であれば、最初からこのような言われ方はしなかったであろう。ここまで人を引きつける原因は、やはり中途半端に頭髪があり、禿頭の手前で首の皮一枚争っている感が見て取れるからだろう。
 ぼくも近頃、洗髪時に抜け毛が気になることが多い。近い将来、万がいち彼らの仲間入りとなってしまったら、その時は潔く剃り上げてしまうつもりなので、どうか変わらず受け入れてほしい。
 
 昔読んだ格闘漫画に、人間が猫と戦うには日本刀を持って初めて対等である、といった感じの一文があった。その時は「いやいや体の大きさがそもそも違うのだから、踏んじゃえば一発でしょ」と思っていたが、対等な条件で戦うのであれば当然人間も服を着る訳にはいかない。
 爪や牙で攻撃されればたちまち出血し、それだけで戦意を喪失してしまうかもしれないし、裸足で外を歩く機会なんて滅多にないが故、枝や小石を踏みつけただけで動けなくなってしまうかもしれない。反射神経や俊敏性はどうあがいても勝ち目はなく、考えれば考えるほど、日本刀を持って初めて対等――という言葉にも納得してしまいたくなる。
 服がなければ体毛に頼らずには生きていけないよ。という話であり、別にぼくは猫と戦いたいと思ったことはない。町中で猫を見かければ、時や場所も考えずに思わず駆け寄ってしまうし、猫に関するニュース記事が目に入れば読まずにはいられない。
 いくら愛情を注いでも、風が吹けば気まぐれにそっぽを向いてしまう一方通行の関係に、ぼくは幼少時からすっかり虜なのだ。
 
 それにしても抜け毛が部屋のあちこちに散乱するミステリーを、いい加減誰か解決してくれないものか。誰でも一度は(例えば本棚や箪笥の上を見て)「どうしてこんな所に縮れ毛が?」と戦慄を覚えた経験があるだろう。人に見られたいものでもないし、無害だと侮っていた抜け毛が思った以上にわずらわしい存在だと、毎度のようにうんざりしてしまう。
 掃除はマメに行っている方だとは思うが、不意に抜け毛と相対する機会は無くならない。部屋もフローリングになったことだし、いい加減ルンバでも買ってみようかと通販サイトで検索してみたが、思いのほか高額でそっとブラウザを閉じて以来、ぼくは静かに探偵の訪れを待っている。
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