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パックご飯を食べるに至った理由

 昨年秋から、人生2度目の一人暮らしを始めた。家具や生活用品をさっさと買い揃えたくなるたちで、後先考えずにカード決済ばかりしていたツケに追われているが、東京に出てからの生活は楽しい。

 外食はほとんどしないが、野菜や果物、缶詰などを主に食べているため、料理はほとんどしない。しかし電子レンジは奮発して、オーブン機能の付いたテーブルが回転しないタイプを買った。「回転しないのは新しくて高級で凄いのよ」と、母が昔々言っていたのを覚えていたからだ。
 電子レンジは毎日使っている。性能にも全く不満はなく、早朝ココアとパックご飯を温めるのに大活躍だ。しかしそれにも関わらず、料理らしい料理は一度も作ったことがない。レシピ集のような冊子が付属していた気がするが、一度も開いたことはなく、オーブン機能の使い方すら分からない。

 完全に機能を持て余しているが、同時に購入した炊飯器はそれどころではない。開封後2,3度お米を炊いたきり、押入れに仕舞われてしまったのだ。黒光のフォルムに惹かれ少々のお金を叩いて手に入れたが、このまま使わなければ、あの時の茶碗一杯の調理費は、いくらになるのだろうと考えるだけで身震いする。
 使い方が難しかったとか、美味しく炊けなかったとか、そういう訳ではない。単にお米をといで炊く、そして食べ終わった後に釜を洗う、という行為が手間だったからだ。 日に一杯ほどしかお米を食べない僕にとって、5号炊きはあまりにもオーバースペックだった。ヒャクロー(ローソンストア100の略称。最近の人はこう呼ぶようだ)でパックご飯を買い、あまりの便利さに噴飯しそうになって以来、すっかりインスタントお米の虜なのだ。

 当初は、プラ容器ごと熱して食べるなんてダイオキシンが発生したらどうしよう、などと心配していたが、炊きたてご飯の美味しさには敵わず、アスベストだろうがホルムアルデヒドだろうがかかって来やがれ、という心持ちである。
 1ルーム故にキッチンが狭く、物理的に洗い物が難しくなる。食器が溜まってくると、水のしたたるお皿をあちらこちらに置くことになり、床がびしょびしょになってしまうし衛生面も心配だ。だから、ご飯一杯分の洗い物が減るだけで非常に助かるのだ。紙コップ・紙皿を使えばさらに手間が減るのだろうけれど、それは流石に怠けすぎという気がして思いとどまっている。

 パックご飯はもっぱらヒャクローで買っていたが、重いし持ち帰るのが手間なので、いつしかネットで注文するようになった。
 購入するのはいつも同じメーカーの24個入りの製品だ。どうしてそれを選んだのかと言うと、検索した中で最も値段が安く(1パックあたり80円ほど)、だからと言って味が気になるわけでもないからだ。納豆と合わせて、僕の朝食の基準になっている。

 学生時代、友人のお米事情を訊いたら「毎日3合を炊いてその日のうちに食べきり、夜は炊飯器のタイマーをセットして寝る」という話が出て驚いた。一見ズボラそうな彼だったので、意外とちゃんとしてるなと思ったのだ。
 その頃は自分も炊飯器を使っていたが、今の体たらくぶりを考えると、ズボラで面倒臭がりは自分の方だったのではないかと、罪悪感が芽生えそうになる。
 しかし僕がどう考えたところで、パックご飯の味も手間のいらなさも変わらないのだから、押し入れに眠らせている炊飯器が再び目を覚ますのは、かなり先のことになりそうだ。

 そういえば、年始に帰省した際に弟が引っ越しをほのめかしていた。電車を3度も乗り換えて通勤しているらしく、プライベートがほとんど取れないそうなのだ。
 パックご飯をやめる気もないし、炊飯器が埃をかぶってしまうくらいなら、弟に使って貰った方がよっぽどいい。早めに連絡しておこう、と忘れないようにここに書いておく。

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文房具と消しゴム

 小学生の頃は、学校の近くには大抵文房具店があったような気がするが、近頃はめっきり見かけない。駄菓子屋や制服屋がデパートに飲み込まれていったように、独立した文房具専門店なんてものはすでに古いのかもしれない。

 祖父祖母は外出が好きで、週末にはデパートやレストランに、よく連れて行ってもらっていた。そんなとき必ず立ち寄るのが、文房具コーナーだった。ショーウィンドーに並ぶ艶やかな万年筆や、無骨な製図用のペンが好きで、店員さんが苦笑いを浮かべるほど、いつも見入っていた。
 万年筆は欲しかったが、ペンを持ちながら軸を回転させる癖のある僕には扱いづらい。それに大抵は、当時の僕からしたら目玉が飛び出るほどの値段だったから、子供ながらに手が届かないものだと諦めていた。しかし製図用のペンであれば、安いものは数百円からあるため、しばしば祖父に買ってもらっていた。

 当時持っていたペンは大抵無くしてしまったが、パイロットの三千円のシャープペンシルだけは今も愛用している。今だって、三千円もするシャープペンシルを易々とは買えない。今の価値観では決して測れないほど、当時の僕にとって、それはとてつもない金額だった。どうしてそれほど惹きつけられたのかは分からないが、金属製のグリップと黒檀のような重厚なボディは、今も握っているだけで嬉しくなる。

 昔、練り消しゴムが流行った時があった。一過性のものなのか、うちの学校だけなのかは分からないが、例にもれず僕も練り消しが欲しくてたまらなかった。
 そもそも練り消しゴムとは、黒鉛のデッサンなどでグラデーションを出すための専門用具である。しかし当時、日用品店はおろかスーパーの文具コーナーにさえ、様々な種類の練り消しゴムが並んでいた。派手な色がついていたり、伸縮性を謳っていたり、匂いがついていたり、筆記用具と言うよりは玩具のような扱いだった。外国人観光客に人気らしい、おもちゃ消しゴムのようなものだ。
 学校では男子を中心に、休憩時間毎に練り消しが飛び交うようになった。色を組み合わせてマーブル模様を作ってみたり、いくつもこね合わせて粘土のようにしたり、ただの消しゴムなのだから遊ぶと言ってもその程度だが、あるようでなかった質感に多くの児童が惹かれていた。
 考えて見ればスライムだってそうだ。ゲームキャラクターとして根付いたことも流行の原因かもしれないが、ヌルヌルどろどろした物体だから何ができるという訳でもない。それなのに、今でも玩具の定番商品であり、見かけない玩具店の方が少ないくらいだ。

 とにかく僕は、練り消しを持つ友人が羨ましかった。両親にねだっても、そんな物はすぐ汚くなって不潔だから、という理由で買ってもらえなかったからだ。拳ほどの大きさに固めて投げ合ったり、糸を引くように伸ばしたり、そんな遊びを見るたび真似したくなった。
 どこかに落ちてはいないかと目を皿のようにして床を探したり、まとまるくんの消しかすを集めてみたり、勉強そっちのけでそんなことに必死になっていた。そうしてできあがった小指の先ほどのお手製練り消しは、単なる薄黒い塊でしかなかったが、この上ない達成感と共に長いこと筆箱の隅に置いていた。

 今は家でも職場でもボールペンを使うため、消しゴムを利用することはほとんどなくなった。文房具店で筆記用具を眺めるのは今でも好きだが、色とりどりの練り消しなどはほとんど見なくなった。そういった専門店より、おもちゃ売り場を併設したようなデパートなどに置いてあるのかもしれないが、それほど売れもしないのだろう。スマートフォンにテレビゲームに、いくらでも遊びの選択肢がある現在では、こうした単純な触覚体験は、幼稚園の粘土遊びで多くの者が卒業してしまうのかもしれない。

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服を捨てられない病

 服に対して消耗品という考え方かできないでいる。どれだけ色褪せても、皺くちゃになろうとも、破れでもしない限り着続けなくてはいけない、という強迫的な観念が染み付いているためだ。だから僕にとって、服を買うというのは一大事だ。ファッションセンターしまむらだろうと、どこぞのブランド品だろうと、今後数年間肌と重ねて付き合っていくのだから。
 僕は現在二十代後半に差し掛かっているが、未だに高校生の時に買った衣服を持っている。デザインが気に入っているとか、思い入れがあるとか、何か理由がある訳ではなく、特に捨てる必要もないから持ち続けている。

 こんな言い方をすると、さぞ服を沢山持っていると思われてしまいそうだが、そんな事は全然なく、むしろ着るものがなくて困っているから、古い服も捨てられない、という状態なのだ。下着不足は慢性化し、ジャケットもパンツも同じ物ばかり着ている。
 スティーブ・ジョブズに習ってウィルパワーを節約している人に見られたらどうしようかと悩んでいたが、見かねた友人がお下がりをくれるほどだから、そんな心配は端から杞憂だったようだ。
 服を買う事に臆しているからと言って、貰えるものまで遠慮はしない。貧弱な箪笥を見た友人の言葉を聞いた僕は、二つ返事で飛び付いた。僕は長男のため、洋服のお下がりを貰うなんてほとんど初めての経験だった。
 初めから使用感があれば、着るのにそれほど気を使う必要もないし、自分では買わないような面白い服があったりして、バリエーションが増えたのが良かった。今はまだ寒いから、これから春先にかけて徐々に着こなしていきたい。

 そもそも普通の人は、どれくらいの頻度で服を買い、捨てているのだろう。僕は数百円のTシャツや寝間着のトレーナーも、気が付いた時には4,5年着続けていたりするから、みんながそうだとは思わないけれど、人の事情が全く想像できない。
 こんな僕だが、洋服屋さんを覗くのは嫌いではない。店員さんがしつこいようなお店は苦手だけれど、値札を見て意外な金額に慄いたり、洒落込んだ店内を歩くのは楽しい。お店からすれば困った客かもしれないけれど、買う気がなくて冷やかしている訳ではないのだから、静かに服を鑑賞させて欲しい。

 そもそもどうして服屋の店員さんは、あんなにがつがつとしているのだろう。あの手の営業トークに捕まると、断りきれなくなってしまいそうで恐ろしく、僕は早々に店から出るしかなくなってしまう。一度、試着中にカーテン越しに突然声をかけられたこともあって、その時はさすがに勘弁してくれと思った。声色には出さなかったけれど。

 話している時間が長くなるほど、断るのに罪悪感が芽生えてくるのをどうにかしたい。無愛想に徹してしまえばいいのだろうが、往来の気の弱さからそうもいかず、後に引けなくなった挙句、トイレに行くふりをして店を出たこともしばしばだ。
 あちらからしたら僕みたいなのは格好の客なのかもしれないが、ドライにならなければ洋服すら見にいけないような世の中は、間違っていると思いたい。

 中学生の頃はよく、ファッションセンターしまむらに行っていた。隣町のショッピングセンターにあり、両親にもらったお札を握りしめて、いつも同じ友人と自転車で向かった。
 しまむらはやけに大きいサイズの服が多く、まだ身長も低かった僕は、何を着ても大抵だぶだぶになってしまい、思い返すとよくあんな格好で外を歩いていたなと、恥ずかしくなる。
 中学3年に上がる頃から徐々に友人が来てくれなくなり、それどころかしまむらに行っている僕を莫迦にするようになった。一緒に行っていたじゃないか、と心では思っていたが、すっかりおしゃれ組の仲間入りを果たしてしまった彼の前で、それはあまりに悪い気がして黙っていた。

 近ごろ色あせたTシャツを裁断し、雑巾として使うようになった。製造現場などで言われる、ウエスというやつだ。時おり糸くずが気になるけれど、気兼ねなく使い捨て出来るのが便利で、水場の掃除などによく使う。
 ただゴミになってしまうと思うと、捨てるのがためらわれる。ハサミでバラバラにするのは勇気がいるが、服だってちゃんと処分するものなのだと、認識を改めていきたい。

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すてきな比喩に出会いたい

 この小説家が好きだ、と思う時にはいくつか落とし所があって、独特な一人称の文体だったり、凝った比喩表現だったり、そんなものに惹かれることが多い。
 ハードボイルドな淡々とした文体でも好きな作品は沢山あるが、機械的な情景描写がひたすら並ぶような文章を読むと、誰が書いても同じなのでは? という考えがもたげ(実際はそんなことはないのだろうけれど)集中できなくなってしまう時がある。
 だから、誰か知らない作家さんの作品を読みたいな、と思ったときには、本屋さんで実際に手に取り、文章の読みやすさから判断することが多い。翻訳物や歴史物などは、よほど興味をそそられない限りほとんど買うことはない。

 ここ数年、女性作家の作品をよく読むようになった。状況説明的な描写ではなくて、心情を事細かに描いた、感性が光るような文章に出会えたことがきっかけだ。
 見聞を広めるためにも、いわゆる名作と言われるようなロシア、フランス文学なども読んでみたいとは思うのだけれど、どういう訳か翻訳物の文章となると途端に頭に入ってこなくなる。今度こそはと思い気を新たに買ってみても、結局積み本が増えるばかりなので、このチャレンジは気長に取っておくべきなのかもしれない。

 表現方法の一つに「比喩」という文章技術がある。ものを例えて述べるという至極単純なことにも関わらず、小説の魅力や作家の個性まで左右する、作品の中枢とも言えるような技術だと思っている。
 その比喩にも流行り廃りというか、これは使ったらまずいよ。みたいなリストがあるそうなのだ。ある小説家の方が仰っていたから、うっかり書いてしまおうものなら編集時点でダメ出しを食らってしまう、という事なのかもしれない。
 例えば「白魚のような」。
 シラウオというのがよく分からなかったので画像検索してみると、シラスみたいな美味しそうな写真が沢山出てきた。作品名は忘れてしまったけれど、昔読んだ古典的な作品で、このような比喩を何度か目にした気がする。とても曖昧な記憶だが。
 しかし不思議なことに、それが透き通るような肌の例えであることは知っているから、やはり何かしらの作品内で触れたことがあるのだろう。
 別段おかしな比喩だとは思わない。確かに白魚は透き通るように真っ白で、シラスみたいに釜茹でして、ご飯に乗せたら美味しそうなのだから。
 ではなぜダメなのかというと、その場では言及されていなかったから僕の予想でしかないのだけれど、単純に時代ごとのセンスの違いなのではないか。僕も肌には多少気を遣っているから、時折「意外と肌きれいなんだね」などと褒められると、ちょっとうれしくなってしまったりもするのだが「君の肌はまるで白魚のようだね」と言われて素直に喜べるかは疑問だ。
 意味としてはもちろん伝わるのだけれど、なんだか古くさい響きだし、もしかしたらギャグなのかな? という思いに捕らわれ、曖昧に頷いてお茶を濁してしまうかもしれない。
 つまりそういうことなのだ。多くの人には白魚のような透明感のある白さ、というのは伝わるだろうけれど、イカのようなとか言われてもあまり嬉しくないのと同じく、恐らくは耽美で官能的な場面で使われてきたこの表現も、現代では雰囲気を台無しにしかねないのだ。
 それにしても、僕は白魚という単語を比喩表現でしか聞いたことがない。そんなだから、名前の通りさぞ白いんだろうな、という認識だけで今まで過ごしてきたが、昔はシラスに変わるような丼物の定番だったとでも言うのだろうか。かつて文芸界にここまで広まったルーツを、探ってみたいような気がする。

 「壊れたレコードのように」という比喩は、いつ頃から使われるようになったのかは分からないが、現代でもそこそこ見かける。レコード盤を買ったことはあるが、プレーヤーはもっておらず、自分の手で再生したことはない。しかし「……繰り返した」と続くことが多いため、レコードは壊れると同じ箇所を何度も再生してしまうんだろうな、という真逆の流れで、最初は理解していたのだと思う。
 今時、壊れたレコードが同じフレーズを繰り返しているような場面に遭遇することなど、そうあるとは思えない。イギリスでは、CDの売り上げがデジタル配信に押される一方、今になってレコードが伸びてきているらしく、そのようなレトロ新しさが流行る事例もあるのだろうが、それでも大半の人は映画などのフィクションから、壊れたレコードの知識を得るのではないかと、僕は思っている。
 しかしこの比喩は、あまりにありふれて単なる記号のように聞こえてしまうのは僕だけだろうか。ある大作家の先生が、作家志望者向けの講座で生徒の作品を読んで、ありふれた表現にだめ出しをし、オリジナリティの大切さを説いていた。しかし、その先生のある作品では「壊れたレコードのように……」という比喩が二度も出てきたことがあって、好きな作家だがそのときばかりは首を傾げたくなってしまった。

 読書中に比喩に感動すると、思わずマーカーでラインを引きたくなる。もちろんそんなことはできないから、物語もそっちのけでそれこそ「壊れたレコードのように」心中で繰り返す。
 同じ小説を繰り返し読み、物語の記述という以上に文章を味わう楽しさを知ったのは、ある先生の短編集がきっかけだった。少々過剰的とも思える修飾・比喩表現にかつてないほどの衝撃を受け、自分の物にするべく何度も何度も読み返し、やがて同人活動を……、というのはまた別の時に書くとして、そんな比喩との出会いをこれからも大切にしていきたいものである。

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ちかちかうるさいゲームセンター

 中学生くらいまで、ゲームにはあまり馴染みがなかった。ファミコンロクヨンゲームボーイも持っていなかったし、休日は外で遊ぶことが多かったから、たまに友人の家に行くと羨ましくて、一人でいつまでも齧り付いていたりした。
 しかし、RPGやパズル系のゲームはルールが分からず、アクションやシューティングなど素早い判断を求められるゲームも下手だった。だからうまく先へ進めない時は、友人に頼んでその様子をハラハラしながら、まるで映画でも見るように楽しんだりすることがあった。特にホラーアドベンチャーなどは、恐がりの怖いもの見たさで自分では絶対にできないくせに、友人にせがんでわざわざプレイして貰ったりしていた。
 今考えるとなかなか迷惑な話だが、ゲーム機なんて逆立ちしたって買って貰えそうにはないし、そうやって欲を晴らすしか方法がなかったのだ。

 そんな訳でゲームセンターにも長らく馴染みがない僕だったが、毎週のように通うようになったのは高校生の頃だ。当時は友人たちと原付免許を取ったばかりということもあり、毎週のように千葉のゲームセンターに行っていた。
 なかなか広い所で、当時すでに絶滅しつつあったパンチングマシーンやキックマシーンなど、体感型のアーケード筐体があれこれ置いてあり、飽きもせずにそればかりやっていた。「筋トレしたら数値が上がった」なんていちいち騒いだり、柄の悪そうな集団に絡まれそうになったり、今考えればあまりに中身のない時間つぶしだったが、風を切って体を動かしていただけ健康的だったかもしれない。
 受験シーズンが訪れ、週末に集まる回数が減ってくると、自然とゲームセンターに行くことはなくなった。気まぐれに1人で行ったこともあるけれど、体感ゲームなんてやる気にはならないし、かといって他のはルールが面倒だったり、ユーザー登録が必要だったり、ふらりと初見で楽しめそうもない。
 音楽ゲームをすごい勢いでプレイしている人を見て「いくらお金をつぎ込んだら、こんなに上達するんだろ......」などと考えながら、ほとんどお金も使わずに出てきてしまった。

 ガンシューティングみたいに、ルールも簡単で誰でも遊べるようなゲームが減り始めたのは、いつ頃なのだろう。The House of The Dead シリーズなどは、PC版(win95)を誕生日に買って貰うくらい好きだったが、近頃ではあまり見かけないので寂しい。タイピングオブザデッド、というキワモノもPCソフトでは結構流行っていたようだが、ゲームセンターで見かけたのは1度だけだ。当ソフトでは僕もかなりタイピングを鍛えさせて貰ったから、またアーケード筐体でやりたいと思いつつも、そもそも滅多にゲームセンターには行かないので、一向に見つからないままだ。
 スマートフォン向けのゲームが、映画やアニメになる時代だし、わざわざゲームセンターに足を向けさせるには、ある程度ユーザーの囲い込みも必要なのかな。などと、ゲームに興味がないなりに、小難しいゲームが増えた理由を考えたりもしたが、今後VRなどのゲーム筐体が流行れば(既にあるのかもしれないが)また行ってみたい気もする。

 記憶を掘り起こしていると、久しぶりにスリルドライブがやりたくなってきた。スリルなんてレベルじゃない大惨事に悲鳴が次々と上がると、対戦時などはなかなか面白い。慎重に安全運転を心がけているつもりでも、必ず何かしら事故にあい、いつもコースの8割くらいの所でタイムアップになってしまう。コンティニューしたことはなく、ゴール後に何が起こるのかは未だによく分からないが、ゲームオーバー後に表示される被害総額と、運転分析のパラメータを見るまでは、席を離れられなかったものである。
 小学生の頃、お婆ちゃんとゲームセンターに行った時、何を思ったか車の運転経験すらないお婆ちゃんが(僕もだが)突然スリルドライブにお金を入れ始めて、呆然とした記憶がある。
 ゲームを開始して数分後、安全運転に徹していたお婆ちゃんが「動かなくなっちゃったんだけれど……」と、最初のチェックポイントのはるか手前で、残念そうに振り返る姿が今でも忘れられない。

 しかしそう考えると、ずいぶん昔からあるゲームだから、不謹慎さを突かれそうな内容ながらも、かなりの人気シリーズであることが窺える。寒いから外にはあまり出たくないけれど、スリルドライブThe House of The Dead があるゲームセンターだったら、久しぶりに行ってみたい。
 しかし、デパートに併設されているようなこぢんまりとした所には無さそうだし、専門店に行っても音楽・格闘・メダルゲームばかりで、手持ちぶさたになってしまう気がするし、僕が望むようなゲームセンターはすっかり過去のものなのかもしれない。
 苦手なことはがんばっても、大して上達もせず時間を無駄にするだけだから(僕の場合)潔く触れないようにしよう、という信念の元、僕は昨年、パソコン・コンシューマゲームの大半を処分した。蒐集に熱を入れていたSTGなども一度手放してしまえば、それほど未練もないもので「棚がすっきりしてよかったぁ~」なんて思っていたが、時折懐かしさに浸ることすらできないのは、やっぱりちょっと寂しいのだ。

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